2009年06月26日

東名高速道路

東名高速道路(とうめいこうそくどうろ、TOMEI EXPRESSWAY)は、東京都世田谷区の東京ICから、神奈川県、静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。一般に東名高速や単に東名(英語: TOMEI EXPWY,TOMEI)と略される。法定路線名は第一東海自動車道である。また、アジアハイウェイ1号線の一部である。

全区間を中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理・営業している。隣接している中央自動車道・名神高速道路・東名阪自動車道・西名阪自動車道とともに、東京・名古屋・大阪の日本三大都市を結ぶ日本の大動脈となっている。名神高速道路と一体とした呼び名で東名神と呼ぶこともある。

東京ICから厚木ICまでは大都市近郊区間であり、普通区間に比べて若干料金が割高になっている。

東京IC、横浜青葉IC、裾野ICを除きトランペット型インターチェンジとなっている。また台風接近時は高波の影響で名古屋方面(下り線)の富士ICから清水ICまでが度々通行止めになる。

東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4km(距離測定:キョリ測(ベータ))であるが、東名高速の延長距離は346.8kmと、約98kmも迂回している(東海道新幹線の東京駅-名古屋駅とほぼ同じ距離)。
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毎年10月ないし11月の2週間(平日)に渡って集中工事が行なわれている。
「東名高速道路」の名称は東京ICから小牧ICまでの道路名であり、小牧IC以西の道路名は「名神高速道路」である。法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、高速自動車国道の路線を指定する政令の別表)による路線名は、それぞれ第一東海自動車道、中央自動車道西宮線である。また、中央自動車道西宮線は、東京都から西宮市までの一貫した路線であるため、小牧JCTから小牧ICまでは重複している。これは、逆にすると、高速自動車国道の路線11,520kmの内訳である第一東海自動車道(東名)347kmと中央自動車道西宮線(名神)465kmと合わなくなることからもわかる。

「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、東名と名神・新名神のみであるが、これは両道路の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮し、例外的に採用されたものである[1]。このため、両道路それぞれを指して「東名自動車道」「名神道」と呼んだり、他の高速自動車国道を指して「中国高速道路」「東北高速」などとは呼ばない。ただし日常生活の場面において、しばしば沿線案内においては○○高速と呼ばれることもある。


2009年06月10日

君が代(きみがよ)は、日本の国歌

君が代(きみがよ)は、日本の国歌。

1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代に林廣守が作曲した。

1880年(明治13年)、日本の国歌として君が代が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。(歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である)。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

国歌は、近代西洋において生まれ、幕末、日本が開国した時点において、外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の有り様は、1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[2]

つまり国歌の必要性は、まずなによりも、外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌・国王行進曲のように、歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって、明治初年の日本ではなじみがなく、当初はNational anthemの訳語もなかった。国歌と訳した[注 1]後も、国歌は和歌と同義に使われていた言葉であったため、長らく漢詩に対するやまと言葉の国歌という意味の方が浸透した状態で、National anthemの意味するところは、なかなか国民一般の理解するところとならなかった[2]。

こういった、和歌を国民文学とする意識からすれば、日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌君が代制定の経緯を初めて研究し、遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助も、まずは歌詞についての考察から始めている。

2009年06月06日

湖南焼(こなんやき)とは1851年(嘉永4年)-1854年

湖南焼(こなんやき)とは1851年(嘉永4年)-1854年(嘉永7年)の間に、滋賀県大津市長等山下、札之辻、または三井寺下鹿関町で焼かれた陶磁器である。

1851年(嘉永4年)に円満院門跡覚淳法親王の支援により、永樂保全が開窯する。又色々な階層の人々に接して「河濱焼」、「三井御浜焼」、「長等山焼」などを試みるが、1854年(嘉永7年)保全の死去により廃れる。伝来品は数少ないが保全最晩年の作として名品の類は多く現在高い評価を得ている。作風としては祥瑞、古染付、赤絵、金襴手などが多く遺存する。2005年(平成17年)から山田青月により再興され現在に至る。
スポット しみ取り ビジネス 運勢 介護サービス 養育 リラク 化粧品 介護 特産品 外国語 特産物 通信教育 旅館 美容整形 SEM促進 審美歯科 経営 ペット 介護 運送 健康 乗物 語学 雑貨 生涯学習 交通地図 ケア 遊園地 ネイル マンション 自動車 やせる 行政書士 ポイント 介護 結婚 健康 お土産 音楽 予備校 予備校 観光 香水 旅行代理店 美容整形 フランチャイズ 仏具 健康 調査

伝来品は茶道具(茶道)、煎茶道具(煎茶道)、雑器など様々な物が現在伝世している。又、短期間で住居を移転し、たびたびに作風も変化している。主な作風として染付磁器、赤地金彩、鉄絵陶器が多い、ただ特筆するのは金彩の作品が多い事である。 豊富に金を使う事によって何を意図したか不明であるが、近世最後の名工としての自負が感じられる。 又、滋賀県立陶芸の森に所蔵されている「金襴手龍文馬上杯」などは同時代の焼物には類を見ない形で、当時西洋より輸入されたガラス器の影響を受けたものと考えられる。 晩年、息子和全と不仲になり京都を離れ地方を流転するが、強い個性ゆえ他と交えることが出来なかったのであろう。湖南焼の特徴と云えば保全の個性的な創造力と云っても過言ではない。 それ故にこそ現在まで作品の力が衰えず魅力を保っている。又,紀州徳川家の偕楽園焼、摂州高槻城主、永井直輝による高槻焼をはじめ各地の大名や門跡寺院など、各地の御庭窯に招かれて指導にあたったことは陶技の伝播を考える上で陶磁史上に不動の足跡を残した。

2009年04月23日

北仏を中心に各地から

当初インノケンティウス3世は、フランス王フィリップ2世の参加を要請したが、フィリップ2世がイングランド、神聖ローマ帝国との対立を理由に断ったため、参加した北仏諸侯の中から、武勇と宗教的情熱で著名だったシモン・ド・モンフォールが教皇特使のアルノー・アモーリと共に指導者に選ばれた。1209年、北仏を中心に各地から約1万の十字軍がリヨンに集結した。事態の容易ならざることを悟ったトゥールーズ伯レイモン6世は、アルビ派を規制することを誓い十字軍に参加した。レイモンの甥にあたるカルカソンヌ、アルビの領主であるレイモン・ロジェも十字軍との妥協を図ったが拒絶され、やむなくカルカソンヌに戻り防衛を準備した。

最初の十字軍の攻撃は7月21日にベジエに対して行われ、翌日にベジエは陥落した。十字軍は約1万人の住民をアルビ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。殺された住民のうち、アルビ派は実際には約500人に過ぎなかったといわれる。この時、カトリックとアルビ派との区別を問われた教皇特使のアルノー・アモーリは「すべてを殺せ。神は己の者を知りたまう」と叫んだという。

次の標的はカルカソンヌで、堅牢な城壁都市だったが、避難してきた周辺の住民で人口過密状態となっており、水の手を絶たれるとわずか1週間で降伏した。ここでは虐殺は行われなかったが、住民は街から追放された(絵参照)。これらの知らせに周辺の都市、村は恐れをなしたため、十字軍はその後ほとんど抵抗らしい抵抗を受けず、この年の秋までにアルビを始めとした周辺の都市、村を制圧していった。1210年に入って近辺のラストゥール領主ピエール・ロジェ・ド・カバルの抵抗を受けたものの、その後も順調に征服地を広げていった。

しかし1211年に入ると、シモン・ド・モンフォールらの十字軍指導者とトゥールーズ伯らの現地諸侯が対立し、トゥールーズ伯レイモン6世は再び破門を受けた。これを受け、6月に入ると十字軍はトゥールーズを包囲したが、堅固な要塞都市であったトゥールーズは容易には陥落せず、十字軍は包囲を解いて撤退した。勢いづいたトゥールーズ伯は周辺の都市を回復し、翌年の終わりにはトゥールーズ伯領のほとんどを奪回した。

しかし、1213年にアラゴン王ペドロ2世の援軍を受けて十字軍の篭もるミュレを攻撃した際に反撃を受け、ペドロ2世が戦死するなどの敗戦により形勢は再び逆転した。1214年になると(この年ブービーヌの戦いでフランス王フィリップ2世が勝利している)、トゥールーズ伯レイモン親子はイングランドに亡命した。当初の約束どおり占領地は十字軍諸侯が分け合い、シモン・ド・モンフォールがトゥールーズ伯、プロヴァンス侯となり、1215年までにほとんどの征服は完了した。

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中期
しかし、現地の住民は北仏の占領者に不満を抱いていたため、1216年に旧トゥールーズ伯レイモン親子が南仏に戻り旧領の奪回を図ると、旧臣や住民が集まりまたたくまに大勢力となった。戦闘は一進一退で双方とも都市、村の奪い合いとなったが、1217年にレイモン親子はトゥールーズ奪回に成功した。

シモン・ド・モンフォールはすぐにトゥールーズを攻撃したが攻略できず、1218年の攻撃中に戦死した。跡は息子のアモーリ・ド・モンフォールが継いだが、十字軍をまとめ切れず少しずつ占領地を失っていった。1222年にレイモン6世(親)は亡くなるが、既にほとんどの旧領を回復していた。1224年にトゥールーズ伯レイモン7世がカルカソンヌに入城するとアモーリ・ド・モンフォールは支配地を捨てて逃走し、フランス王ルイ8世に全ての南仏(ラングドック)の支配権を譲り渡した。

終期
大義名分を得たルイ8世は、1225年にトゥールーズ伯レイモン7世を再び破門に追い込み、1226年に新しい十字軍を率いてラングドックからオーベルニュ、さらには当時神聖ローマ帝国領だったプロヴァンスの征服に乗り出した。戦い疲れた南仏の諸都市はほとんど抵抗せずに降伏し、神聖ローマ帝国領のアビニョンの抵抗はあったが、これも3ヶ月で制圧している。ルイ8世は11月に亡くなるが、跡を継いだルイ9世(実際は摂政である母ブランシュ)が十字軍を継続し、1228年にはトゥールーズを奪い、1229年にトゥールーズ伯レイモン7世(レイモン6世の息子)と協定(ルイ9世の弟アルフォンス・ド・ポアティエとレイモン7世の娘ジャンヌ・ド・トゥールーズとの婚姻及び将来の相続)を結び、十字軍は終結した。

異端審問
1229年から異端審問が始まった。アルビ派と認定されれば火刑となり、遺体が掘り出されて火刑とされることもあった。アルビ派であることを放棄すれば命は助かったが、当時の人間にとって信仰はしばしば命より重要であり拒否する者も多かった。当然不満は高まり、アルビ派は砦にこもり反抗する者が相次いだ。1240年にはカルカソンヌ子爵の子レイモン・トランカヴェルが蜂起したがいずれも鎮圧され、1244年までに反乱はほとんど終結した。この時期の異端審問は後のスペインの異端審問などと区別するため「中世異端審問」と呼ばれることがある。

2009年04月21日

ペスト

ペスト (癙、Pest(独)、Bubonic Plague) は、人体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が入ることにより発症する病気。日本では感染症法により一類感染症に指定されている。ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多い。菌を保有したネズミの血を吸ったノミ(特にケオプスネズミノミ)に人が血を吸われた時にその刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込む事で感染する。人間、齧歯類以外に猿、兎、猫などにも感染する。

かつては高い致死性を持っていた事や罹患すると皮膚が黒くなる事から黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀のヨーロッパではペストの大流行により、全人口の三割が命を落とした。

ペスト菌が体内に入って2?5日たつと、全身の倦怠感に始まって寒気がし、高熱が出る。その後、ペスト菌の感染の仕方によって症状が違い、次のような病型に分類されている。

腺ペスト
リンパ腺が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も普通に見られる病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓や脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、多くは1週間くらいで死亡する。死亡率は50から70パーセントとされる。

ペスト敗血症
ペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、皮膚のあちこちに出血斑ができて、全身が黒いあざだらけになって死亡する。ペストのことを黒死病と呼ぶのはこのことに由来する。

肺ペスト
腺ペストの流行が続いた後に起こりやすいが、時に原発することもある。かなり稀な病型。腺ペストを発症している人が二次的に肺に菌が回って発病し、又はその患者の咳によって飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。気管支炎や肺炎をおこして血痰を出し、呼吸困難となり2?3日で死亡する。患者数は少ないが死亡率は100パーセントに近い。

皮膚ペスト
希にノミに刺された皮膚にペスト菌が感染し、膿疱や潰瘍をつくる。

治療
伝染病院に隔離され、抗生物質による治療が行われる。有効な薬品としてストレプトマイシン、テトラサイクリン、サルファ剤等があげられる。適切な治療がなされれば死亡率は20から0パーセントに下がる。

予防
予防策として、

感染の予防策としてはペスト菌を保有するノミや、ノミの宿主となるネズミの駆除
ワクチンの接種
腺ペスト患者の体液に触れない
があげられる。

ペストの歴史

アテナイの疫病
紀元前429年、ペロポネソス戦争の最中ギリシャのアテナイを襲って多数の犠牲者を出した疫病は、「アテナイのペスト」と呼ばれていたが、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられ、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

東ローマ帝国での流行
ヨーロッパで最初に記録に残っているペストの流行は、542年から543年にかけて東ローマ帝国で流行したものである。当時は「ユスティアヌスの斑点」と呼ばれた。

472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全ヨーロッパにまたがるペストの大流行が発生した。当時、モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが、この大流行の背景にあると考えられている。1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。

1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換が促進した。

また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされ、迫害や虐殺が行われた(ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まった)。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーに則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという考えがある一方、実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったなどの見解もある。

地中海の商業網にそって、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラーム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。

2004年に英国で出版された「黒死病の再来」という本によると、当時の黒死病は腺ペストではなく出血熱ウイルス(エボラのような)だったという。北里柴三郎の研究により抗血清でペスト等を治す方法はできたがエボラは有効な治し方は無くいまだに脅威があるといえる。

その後の流行
その後も、ペストは17-18世紀頃まで何度か流行している。1665年にはロンドンで流行し、およそ7万人が亡くなった。後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年)で当時の状況を克明に描いている。フランスでは1720年にマルセイユで大流行(en:Great Plague of Marseille)した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備と衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、インドでは1994年に発生、パニックが起きたほどであった。

日本では、1899年(明治33年)に国外から侵入したのが初のペスト流行である。翌年より東京市は予防のために一匹あたり5銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオプスネズミノミは生息せず、したがってペストはなかったとされている[要出典]。なお、1926年以降日本では発生していない。

ペストと魔女狩りの関係
中世ヨーロッパでは、魔女狩りによって、魔女の手先だとされていた猫を大量虐殺した。そのためにネズミが大発生し、ネズミによって運ばれたペスト菌によってペストが大流行してしまったという説がある。しかし、これは誤りである。魔女狩りは、中世ではなく、近代17世紀の事件である

2009年04月05日

琴風豪規

琴風 豪規(ことかぜ こうき、1957年4月26日 - )は、三重県津市出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士。本名は中山浩一。最高位は大関。現役時代の体格は184cm、173kg。得意手は左四つ、寄り。現在は年寄・尾車。愛称は「ペコちゃん」。

来歴 [編集]
「がぶり寄り」を武器に、膝の怪我に悩まされながらも見事大関まで昇進した力士で、「ペコちゃん」と呼ばれ人気も高く、相撲を取る前には学業で体育以外はオール5というインテリでもあった。

当時大関の琴櫻が引退後独立した際の弟子としてこっそりスカウトして稽古をつけていたが当時の佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)に見つかり1971年7月場所に初土俵を踏まされてしまった。初めは琴櫻の内弟子扱いのためかなりいじめられたが当時琴櫻はまだ現役のため助けようがなかったという。琴櫻の引退後まもなく親方が亡くなり白玉親方(琴櫻)が継承したためいじめはなくなったという。

1975年11月場所に新十両、1977年1月場所新入幕。2回目の挑戦で北の湖から金星を挙げると一躍幕内上位の常連となり活躍したが、左膝の大ケガで2度も幕内を陥落。大関目前から幕下30枚目まで落ちたこともあった。当時理事長の春日野親方(元横綱栃錦)が「今度こそはと思ったのに」と言った程である。それにもめげず1981年9月場所、関脇で12勝3敗で初優勝、大関へ昇進した。当時は大関が1人もいなかったため関脇にとって昇進するにはこれ以上ないチャンスだった。更に1983年1月場所にも14勝1敗で関脇朝汐との優勝決定戦を制し、2度目の優勝を飾った。1984年までは大関としてはかなり安定した優秀な成績で横綱昇進を期待されたが、良かった方の右膝も具合を悪くしてしまい大関陥落、平幕まで下がった1985年11月場所限りで引退。尾車親方として、尾車部屋を率いて後進の指導に当たっていたが2009年に若麒麟の大麻所持事件により委員から平年寄への二階級降格の処分を受けた。

幕下まで陥落した時、周囲は「ケガで番付を落としたのだから(しかも前に痛めた箇所の再発という理由で公傷制度の適用が認められなかった)本来幕下以下の力士に命じられる部屋の雑用はやらなくて良い」としたが、琴風は「自分は幕下の力士だから」と他の力士同様に十両に復帰するまで雑用をこなしていた。琴風自身も「今までは勝負に勝つことにしか意義を見出せなかったが、膝のケガをしてからは相撲を取ることそのものに意義を感じられるようになった」と心境の変化があったことをインタビューで漏らしている。

相撲に目を向けてみると、がぶり寄りは下半身が硬い琴風にとって必要に迫られた技でもあったが、上位力士にとっても侮れないものがあった。まず琴風の体型は、相手の懐に飛び込み、ひたすら前に出るには理想的であったこと、土俵際で投げを打たれにくいなど、相手の変化に影響されにくい利点があった。全盛期の横綱北の湖からの初勝利の時、初優勝の場所で横綱2代若乃花を下した一番でも、このがぶり寄りが大いなる武器となり、技の利点を最大限に発揮していたものといえよう。しかし欠点もないわけではない。琴風は膝の怪我に悩まされていたが、膝の具合が悪いとがぶり寄りの威力が著しく減る。全身をバネにする技だけに、膝への負荷が小さくなかったのも事実であった。もっとも足を負傷している力士は口を揃えて「止まったり下がったりすれば痛くて我慢できなくなるけど前に出ている間は痛くない」と言うのでそれを考えると膝の悪い琴風には理想的な取口だったのかもしれない。

琴風が活躍した時代には様々な強豪がいたが、琴風は下位力士に強く、上位との対戦を多少強いられても十分勝ち越す実力があった。ライバルには朝潮(16勝10敗)、北天佑(12勝12敗)などがおり、若嶋津、隆の里との対戦は琴風が大きく勝ち越すなど、上位にも通用する強さがあった。一方、千代の富士には初顔合わせから5連勝していたが、千代の富士が琴風対策を練るために佐渡ヶ嶽部屋に出稽古に来るようになり、6度目の対戦で千代の富士に初黒星を喫して以降は力関係が逆転して全く勝てなくなってしまった(通算で琴風の6勝22敗。特に千代の富士が大関に昇進して以降は琴風が2度目の優勝を飾った1983年1月場所での1勝のみ)。なお、琴風と千代の富士の三番稽古は千代の富士の横綱昇進後も3年ほど続き、琴風にとっても地力強化をもたらす貴重な財産となった。1984年から引退する1985年まではあまり目立った活躍とは言えなかったが、1984年9月、蔵前国技館で最後となった秋場所では、入幕2場所目ながら「殺人突っ張り」で上位陣を圧倒的な強さで次々と破り、優勝候補に名乗りを上げた小錦を千秋楽でついに打ち負かすという大偉業をやってのけ、琴風にとってはもちろん、相撲史にも残る大一番をファンに知らしめた。

琴風の安定した成績を表すものとして大関時代の通算成績(212勝110敗8休)がある。これは勝率に換算(.658)すれば1場所15日制が制定された1949年5月場所以降に昇進した大関の中では最も高く(横綱、現役を除く。昭和以降でも歴代2位)戦後最強大関の候補と呼ばれる根拠として挙げられる。大関時代は皆勤して負け越したのは陥落直前の1985年3月場所に記録した5勝10敗のみ(初めての角番で大関を陥落した)、勝ち越しギリギリの8勝7敗さえ2回しかなかった。下位力士に対する取り零しが少なく上位にも充分に通用していたことがこの数字に繋がった。現在でも「琴風の綱姿を見たかった」と話すファンがいる。

エピソード [編集]
生まれてすぐに黄疸にかかり命が危なくなったことがあったという。
学生時代には、体育系を除く教科で優れた成績を残し、教師を夢見ていたという。
琴風は中学生時代から土俵に上がっていたが、学期末に持ち帰る通知表に五段階評価の「5」が多く、保健体育以外の教科全てが「5」の評価だった学期もあった。当時子供のいなかった元横綱琴櫻の12代佐渡ヶ嶽親方は、冗談好きの弟子から「『1』の評価が最良で、『5』の評価は最悪ですよ」(本当は逆)と教えられたのを真に受けて、「琴風は気の毒に…相撲を取っているから学業成績が非常に悪いんだ」と嘆いていたらしい。
インタビューでの話し方も知性を感じさせる独特なものがあったが、これが好評で現在でもしばしばテレビの解説で活躍する姿が見られる。
審判部からの誘いが持ち掛けられ審判委員も務めたことがあるが(1992年)、現役時代からの膝の故障により長時間座れないことを理由に短期間で断わっている。
サンデースポーツの解説担当時には、当時の司会者・原辰徳とアクション解説をする等の掛け合いが話題になった。
プロボクサー亀田興毅の名である興毅は琴風豪規の豪規からきており、父・亀田史郎が多少編集してつけたとされる。父・史郎は、琴風のファンである。
現役時代歌謡曲「まわり道」を出し流行らせた。数年前の「年忘れにっぽんの歌」で二十年ぶりに熱唱し話題になった。
切手収集が趣味。子供の頃から熱心に収集し、珍しい切手も多数所有していたが、膝の怪我で幕下まで陥落した際、治療費に当てるために泣く泣く売り払った。後に「大切にしていた物であり思い出も多く大変迷ったが、相撲のほうがより大切だったので売却を決断した」と語っている。関取に復帰してから再び収集するようになり、現在も切手収集家である。

主な成績 [編集]
通算成績:561勝352敗102休 勝率.614
幕内通算成績:395勝249敗80休 勝率.613
大関通算成績:212勝110敗8休 勝率.658
幕内在位:49場所(うち大関22場所、関脇10場所、小結1場所)
通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(歴代9位タイ・1981年1月場所?1985年1月場所)
幕内最高優勝:2回
三賞:殊勲賞3回、技能賞1回、敢闘賞2回
金星:6個(北の湖3、輪島2、2代若乃花1)

いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

2009年03月21日

なは (列車)

なはとは九州旅客鉄道(JR九州)が京都駅 - 熊本駅間を東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で運行した寝台特急列車であった。

しかし、同じJRでも競合区間である新幹線や完全な競合である航空機や高速バスの影響を直接に被り、さらに車両の老朽化も相俟って利用者が減少し、2008年3月15日のダイヤ改正にともない、2008年3月14日発の運行をもって廃止された。

登場時には昼行特急列車として運行されたが、山陽新幹線博多駅乗り入れに際して関西圏対鹿児島本線沿線を結ぶいわゆる「関西ブルートレイン」の一員となった。そのため、本稿では主に関西圏対鹿児島本線沿線を結ぶ夜行列車についても記載してある。
京阪神対鹿児島本線優等列車沿革 [編集]
元々「なは」という列車は昼行列車として設定された。下記の「名称の由来」も参照されたい。しかし、山陽新幹線博多駅乗り入れ後は夜行列車の名称として使用されている。そのため、この項目では廃止前の「なは」に繋がるものとして京阪神対鹿児島本線の優等列車についても記載する。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

山陽本線優等列車沿革の項目も参照されたい。

戦後直後の展開 [編集]
1951年(昭和26年)4月1日 大阪駅 - 博多駅間運行の臨時夜行急行列車として3033・3034列車が運行を開始する。
1952年(昭和27年)9月1日 3033・3034列車に「げんかい」の名称が与えられ、定期化される。
1953年(昭和28年)3月15日 「げんかい」臨時で東京駅まで延長される。
1954年(昭和29年)8月1日 「げんかい」正式に東京駅 - 博多駅間運行となり、「高千穂」が連結される。
1956年(昭和31年)3月20日 京都駅 - 熊本駅間運行の臨時夜行急行列車として「天草」(あまくさ)運行開始。
1956年(昭和31年)11月19日 「天草」が定期列車化され、「げんかい」の名称を漢字書きの「玄海」に変更。また、「玄海」九州方の発着地を長崎本線長崎駅とする。
1957年(昭和32年)10月1日 東京駅 - 長崎駅間運行の寝台特急列車「さちかぜ」新設のため、「玄海」の名称を「桜島」(さくらじま)に変更し京都駅 - 鹿児島駅間の運行とする。
1958年(昭和33年)10月1日 「桜島」の名称を再び「玄海」に変更。
1961年(昭和36年)10月1日 サンロクトオと呼ばれた大規模ダイヤ改正により、以下の列車の運行開始。
大阪駅 - 熊本駅間運行の寝台急行列車「ひのくに」運行開始。
「天草」筑豊本線経由とし、博多駅を通過するダイヤを採った。
「玄海」発着地を長崎駅に変更。→以降は山陽本線優等列車沿革も参照されたい。
1963年(昭和38年)10月1日 大阪駅 - 西鹿児島駅間運行の夜行急行列車として「しろやま」運行開始。
1964年(昭和39年)10月1日 東海道新幹線開業に伴い「ひのくに」・「しろやま」新大阪駅発着に変更。
1965年(昭和40年)10月1日 以下の列車の運行開始。
昼行の気動車特急列車「かもめ」に西鹿児島駅(2004年、鹿児島中央駅に改称)発着編成を連結開始。運行区間は京都駅 - 西鹿児島駅間。
新大阪駅 - 博多駅間を結ぶ寝台急行列車「海星」(かいせい)運行開始。
新大阪駅 - 西鹿児島駅・長崎駅間を運行する寝台特急列車として「あかつき」の運行を開始。20系客車を使用し、ブルートレインとなった。
当初より東海道新幹線との連携を持つ列車であった「あかつき」は使用車両・設定種別のみならずこの性格も含めて「関西ブルトレ」の緒とされた。

2009年03月06日

手の目(てのめ)

手の目(てのめ)は、鳥山石燕による江戸時代の画集『画図百鬼夜行』にある日本の妖怪

座頭姿で両目が顔ではなく両手の平に一つずつついている。『画図百鬼夜行』には解説文がないために詳細は不明だが、江戸時代の怪談集『諸国百物語』には「ばけ物に骨をぬかれし人の事」と題し、石燕が手の目のモデルにしたといわれる京都の怪談が以下のように記述されている[1]。ある男が七条河原の墓場に肝試しに行ったところ、80歳くらいの老人の化け物に襲われ、その化け物には手の平に目玉があった。男は近くの寺に逃げ込み、その寺の僧に頼んで長持ちの中にかくまってもらったところ、化け物は追いかけてきて、長持ちのそばで犬が骨をしゃぶるような音を立て、やがて消え去った。僧が長持ちを開けると、男は体から骨を抜き取られて皮ばかりになっていたという[2]。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

天保年間の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にある「手目坊主」なる妖怪が手の目のモチーフという説もあり、これは「化けの皮がはげる」という言葉遊びで描かれたものとされる。目のついた手を上げている様子は、悪巧みやイカサマを明かすことを意味する「手目を上げる」に通じ、坊主頭は「はげる」や勝負の負けを意味する「坊主になる」という言い回しに通じるというのである。後に『画図百鬼夜行』の「手の目」には背景に月とススキの野原が描かれているが、月は花札の「坊主」、ススキは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の洒落である[3]。

岩手県に伝わる怪談によれば、手の目の話が以下のようにある。ある旅人が夜に野原を歩いていたところ、盲人が近づいて来た。その盲人の両手の平に目玉があり、その目で何かを捜している様子だった。旅人は驚いて逃げ出し、宿へ駆け込んだ。宿の主人に事情を話したところ、主人が答えるには、あの場所では数日前に盲人が悪党に殺されて金を奪われ、その盲人が悪党たちの顔を一目見たい、目が見えないのならせめて手に目があれば、という強い怨みが手の目という妖怪になったのであり、越後でも同様に盲人が殺された際に手の目が現れたという[4]。

手の目に関連し、水木しげるの著書にはくらやみ目という妖怪も述べられている。こちらは両の膝頭に目があり、暗闇でも平気で歩けるが、昼間は物にぶつかったりするとある

2009年02月14日

月は東に日は西に 〜Operation Sanctuary〜

主人公達の賑やかな学園生活を中心に、ヒロイン達との愛を育むことがこのゲームの目的。同ブランドの業界における地位を確立した作品である。

発売時のキャッチコピーは「Hシーンは着衣が基本 学園モノならではのシチュ満載です」。攻略可能な各ヒロインに1通り、着衣(半脱ぎ)のままエッチをする(一部ではこういったシーンを挿入した作品を着衣系と称することも)。
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

難易度は控えめ。長くまったりとしたシナリオは前作同様眠りゲーと揶揄されるが、ありふれた日常生活の描写に、ところどころ細かくこだわって作られている様子がうかがえる。原画は前々作、前作と同じくべっかんこう。システムは必要なものはほぼすべて備えており、プレイアビリティを損ねる要素はほとんどない。また、主人公以外フルボイスというのは同ブランド初の試み。他ブランド作品ではほぼ標準実装の各ヒロイン別のBGMや、立ち絵の表情分けなど、前作ではかなわなかったものをしっかりと実装している。
幼馴染みの藤枝保奈美、従妹の渋垣茉理と共に蓮美台(はすみだい)学園に通う主人公、久住直樹。彼は両親を事故で喪い、叔父夫妻の渋垣家で世話になっている。

有り触れた日々が続いて居たが、ある日突然、学園の屋上で昼寝をしていた主人公の上に女の子が落ちてきた。その子は翌日から主人公のクラスメートになるのだが……。

久住 直樹(くずみ なおき)
声優:-/-/緑川光/氷河流
主人公。蓮美台学園に通う2年生で、5年前に事故で両親が行方不明になってからは、叔父夫妻の渋垣家で世話になっている。彼自身事故の影響で、それ以前の記憶を失っている。
基本的に無気力でいい加減な性格で成績もいいとは言えない。登校する時も保奈美が起こしに来るまで寝続けたりしている。愛用する自転車には「世界タービン号」(この自転車のモデルは原画家のべっかんこうの自転車)と名付けている。一応天文部に所属しているが、やっていることがほとんど雑談であり熱心ではない。また料理部の試食係(要するに部員ではないが、保奈美が部員であることもありよく頼まれている)と園芸部(こちらも正式な部員ではないが、ちひろに分岐するとこちらの活動がメインになる)のヘルプも兼ねている。
天ヶ崎 美琴(あまがさき みこと)
声優:草柳順子
誕生日:5月15日。血液型:B型。星座:おうし座。身長:160cm。3サイズ:81(C)/58/81。テーマ曲「GET OUTGOING!」
蓮美台学園に通う直樹達のクラスメート。空から落ちてきた張本人であるが、本人はタルキスタン(美琴が咄嗟にでっち上げた架空の国)からの帰国子女の転校生ということになっている。教室で直樹と隣同士に座っている。赤いロングヘア、ポニーテール、天真爛漫な性格がチャームポイント。杏仁豆腐が大好物。保奈美とは気が合うようで特に仲がいい。直樹の半ば強引な勧誘により天文部に所属。現在は寮住まい。
アニメ版は二通りの結末があり、DVDに収録された一方の結末では彼女が直樹と結ばれる。”みことん”という愛称は原画・キャラクターデザイン担当のべっかんこうが使っていたものがマニュアルに掲載され、作中でも直樹がそう呼んだことがあり、それによるところが大きい(これは保奈美にも言えることである)。本作のメインヒロイン・・・のわりには人気は控えめで保奈美にその座が奪われそうになっているが、これは(オーガストの処女作「バイナリィ・ポット」及び、次作「夜明け前より瑠璃色な」を除く)オーガストのヒロインの宿命でもある。
藤枝 保奈美(ふじえだ ほなみ)
声優:観村咲子/神田理江/同左/観村咲子
誕生日:9月11日。血液型:O型。星座:おとめ座。身長:159cm。3サイズ:85(C)/59/86。テーマ曲「STRAIGHT AT ME」
直樹の幼馴染。直樹の事を「なおくん」と愛称で呼び、毎朝起こしに来る間柄。料理が得意で、料理部に所属し部のエース。容姿端麗、成績優秀とまさに完璧超人で、またそれを鼻にかけることもないため、男子からは絶大な人気がある。直樹とは物心がついた頃からの幼馴染で、5年前の事故当時一緒に居合わせており、自分に責任があるのではないかということを引摺っている。
発売後の人気投票では1位に輝いた。アニメ版は二通りの結末があり、TV放送された一方の結末では彼女が直樹と結ばれる。
“ほなみん”という愛称で呼ばれることもあり、夏服を着用すると“白ほなみん”となる。“ほなみん”という愛称は美琴同様べっかんこうがつけたのが始まりだが、本人も「“ほなみん”って呼んでいいよ」と言っており、“みことん”以上に定着することになる。“白ほなみん”は作中で直樹がそう呼んだことが始まり。蓮美台学園の女子の夏服が真っ白であることによる。先述の保奈美の一言は、こう呼ばれた当日の下校途中に出てくる。また「オーガスト放送局はにはにラジオ」でもジングルの「はにたん」で同じセリフが登場し、英訳も聴ける。余談だが、アンソロジーコミックなどで見かける“黒ほなみん”は、彼女が腹黒いと思う一部の人の間でそう呼ばれている(保奈美本人は「企画モノが好きなだけ」と話しているが、あまりの用意周到さから、直樹も彼女が腹黒いと誤解したことがある)ようだが、「オーガストファンBOX」で黒の下着を着けていたため、そこから黒ほなみんと呼ばれることもあるらしい。
橘 ちひろ(たちばな -)
声優:北都南/ひと美/同左/北都南
誕生日:2月26日。血液型:A型。星座:うお座。身長:149cm。3サイズ:73(A)/54/74。テーマ曲「シルキーウェーブ」
茉理の付属からの親友。唯一の園芸部員で1年生。控えめな性格で自己主張が弱いが、芯は強い。現在は学生寮で生活している。動植物の世話が好きで、とくにこのゲームの鍵のひとつである青いチューリップフォステリアナには思い入れがあるらしく、温室で大切に育てている。カフェテリアのココアが好物なのだが猫舌。ごく稀にではあるが、“ちーちゃん”と呼ばれていることがある。物語開始当初は自転車に乗れず、作品中、茉理の母・英里の使わなくなった自転車を貰って特訓した。
渋垣 茉理(しぶがき まつり)
声優:金田まひる/梶田夕貴/同左/金田まひる
誕生日:7月17日。血液型:B型。星座:かに座。身長:155cm。3サイズ:77(B)/56/79。テーマ曲「陽だまりロケット」
直樹の従妹。直樹の通う蓮美台学園に入学し、憧れだったカフェテリアでアルバイトに明け暮れる。性格は強気だが、乙女チックな一面もある。直樹よりも年下だがタメ口で話す仲であり、くだらないことで口論になることが多い(ただし本気で口論にはなってはいない)。直樹とは「喧嘩するほど仲がいい」を地で行くような関係。また、かなり友達想いであり、ちひろが落ち込んでいる時心配していたこともある。少女漫画を多数所有しているが(直樹と保奈美を除く)周りには秘密にしている。直樹は気づいていなかったが、彼女も意外にもてており、彼女目当てでカフェテリアに来ている客も少なくは無い。柚香から“まつりん”という愛称で呼ばれおり、彼女も柚香のことを“ゆかりん”と呼んでいる。
事故で主人公が両親を失った当時、彼と同居することに大反対だったが、結局受け入れる。
仁科 恭子(にしな きょうこ)
声優:岩田由貴/岩居由希子/同左/岩田由貴
誕生日:11月15日。血液型:A型。星座:さそり座。身長:167cm。3サイズ:89(D)/60/88。テーマ曲「MATURE MIND」
蓮美台学園の養護教諭で園芸部顧問。ただし部にはほとんど顔を出さないが、ちひろが入部したことによりよく顔を出すようになる。結とは仲がよく、仕事以外のプライベートでもよく一緒にいる。仕事場である保健室では、茶菓子(特に煎餅。たまに辛子煎餅)を充実させたり、どこかから貰ってきた「いらっしゃいませ」のマットや「準備中」「社長室」等の看板を置くなどして自分の家のように楽しんでいるが、本人は「親しみやすい保健室を目指している」と主張している。
面倒見が良く、ルックス・スタイルも良いため男子生徒に人気があるが、大人の余裕であしらっている。コーヒーに凝っており、よく直樹に雑用を頼み、そのお礼として振る舞う。作品中では、直樹にコーヒーの淹れかたをレクチャーするなど、その凝り様の深さがうかがえる。
普段は養護教諭として生徒たちと接しているが、それと同時に「ワクチン開発」を担当する研究者として、100年後の未来でアウトブレイクを引き起こした致死性ウイルス“マルバス”の研究を行っている。なお、恭子が研究している“マルバス”には潜伏期間が短く、エボラ出血熱に似た症状で短期間で死に至る「甲種」と、潜伏期間が比較的長く、徐々に神経系を侵す「乙種」の2種類がある。作中では対“マルバス”用ワクチン研究の被験者として未来から連れて来た天ヶ崎祐介と「瓜二つどころか、同一人物としか思えない」久住直樹に対して興味を抱くようになる。愛用の白衣と万年筆は父親の仁科直樹教授(ウイルス研究者・故人)の形見でもある。
野乃原 結(ののはら ゆい)
声優:木村あやか/猪口有佳/同左/木村あやか
誕生日:1月4日。血液型:AB型。星座:やぎ座。身長:138cm。3サイズ:64(AA)/51/68。テーマ曲「プチプチフロート」
新任教師。直樹達のクラスの担任および古典担当、ならびに直樹が所属する天文部の顧問。背が低いことを本人も気にしていて、初出勤日には弘司に付属生と間違えられる程。居丈高なところがなく応援したくなるような存在で、担任として赴任した当日にクラスのみんなの「かまわれキャラ」になった。だが、教師だけのことはあり、専門外の資料でも簡単に読破できるほどである。
大好物はプリン「別名“プリン中毒患者”」(仁科恭子談)。その「中毒」ぶりはプリン状の食品であれば味は関係なく何でも食べられるほど。CDの中ではプリンの精にまでなっている。カフェテリアの自家製プリンは1日4個までと決めている。「機械は愛称をつけてあげたほうがきちんと動く」という理由で、車(黄色の丸い車)には「まるぴん」と名前を付けている。
古典担当の教諭であると同時に、100年後の未来と現代を結ぶ特殊物流システム「時空転移装置」の開発者であり、この装置の管理を担当するシステム・エンジニアでもある。後に5年前に久住の両親が行方不明になった原因が時空転移装置の試運転時に発生した暴走事故によるものだということを知り、久住に対してある種の罪の意識に似た感情を抱くようになる。ちなみに、"Operation Sanctuary"の主要メンバーとして、時空転移装置の管理を担当する結のほかに、仁科恭子(ワクチン開発)、深野純一(防諜・情報管理)、宇佐美玲(総括責任者)が名を連ねている。
秋山 文緒(あきやま ふみお)
声優:大波こなみ/幡宮かのこ/同左/?
誕生日:3月21日。血液型:A型。星座:おひつじ座。身長:154cm。3サイズ:76(B)/56/76。
通称「委員長」。その通称に相応しくまじめで仕切り屋。アニメ版では直樹が提案するまで結先生に委員長であると思い込ませていたほど。弓道部所属。蓮美台学園の学生寮である蓮華寮の寮長でもある。制服を着ているときはコンタクトだが、私服のときはメガネを着用している。祖父の影響から歴史小説や時代劇、考古学などを好んでいる。なお、委員長に推薦したのは直樹だが、初対面だったのか名前を知らなかった。だが、この出来事がきっかけとなり、その後はよく話すようになる。
人気投票で思わぬ好成績を挙げ、コンシューマ版ではヒロインに昇格し、シナリオが用意された(「オーガストファンBOX」のミニシナリオ集にも、彼女のシナリオがあるが、コンシューマ版のシナリオとは異なる)。なお、制服のデザインを決めるために書いたキャラが好評であり、直樹達のクラス委員長が登場することもあって本編に登場させた、というのが彼女の誕生のきっかけ。
広瀬 柚香(ひろせ ゆか)
声優:-/飯塚雅弓/同左/?
誕生日:12月26日。血液型:O型。星座:やぎ座。身長:158cm。3サイズ:78(B)/57/79。
コンシューマ版で追加されたヒロイン。弘司の妹。親が転勤が多く、次に引っ越す場所が学校も無いような場所だったため、兄のいる学園に転校してくる。親の転勤が多かったため、友達も満足に作れず兄である弘司に付きっ切りになっている。そのことで一度ブラコンだと言われたこともある(本人は否定している)。学園に転校してきてから渋垣茉理と橘ちひろと友達になる。兄が在籍していると言う理由から天文部に入部したが、困った人がいたら見過ごせない性格で園芸部や演劇部にもヘルプで顔を出している。直樹のことは弘司からよく話に出てきており興味を持っていた。
原作とアニメ版には登場しないが、「オーガストファンBOX」内のコンテンツ「オーガスティック・クロニクル」では紹介されている。

サブキャラクター
渋垣 源三(しぶがき げんぞう)
声優:上別府仁資/同左/同左/?(「オーガストファンBOX」のみ鳴海志朗)
茉理の父親で英理の夫。中東方面でにがりを中心に取引(貿易)をする商社に勤務。その関係で長く家を留守にすることもある。家では昼行灯状態となっている。「オーガストファンBOX」内では「バイナリィ・ポット」のマスター、「Princess Holiday 〜転がるりんご亭千夜一夜〜」のハワードらと意気投合し、3人で即席ユニット(?)“オヤジーズ”として直樹とクイズで対決している。
渋垣 英理(しぶがき えり)
声優:北都南/ひと美/同左/?
誕生日:12月2日。血液型:B型。星座:いて座。身長:165cm。3サイズ:87(C)/59/89。
茉理の母。夫の源三と同じ商社に勤める。朝早く夜遅い毎日の中で、茉理と直樹の世話も欠かさない、典型的な良妻賢母タイプの女性。料理も上手。
学生の時に源三と結婚、出産している。
天ヶ崎 祐介(あまがさき ゆうすけ)
声優:氷河流/緑川光/同左/?
美琴が最初に直樹に会った際に見間違えた人物。美琴の弟であり行方不明になっている。
祐介の正体は、5年前に起きた時空転移装置の暴走事故によってそれまでの記憶を持ったまま100年後の世界に飛ばされた「直樹の分離体」。100年後の荒廃した世界をさまよう中、天ヶ崎一家と出会い養子(美琴の義弟)となるが、祐介もマルバス(乙種)に冒されてしまったため、治療の為、義姉の美琴には内緒でワクチン研究の被験者に志願し、再び100年前の世界へ送られることとなる。
広瀬 弘司(ひろせ こうじ)
声優:高橋広樹
主人公の悪友で天文部部長。冷静な常識人だが人付き合いが良く、誰とでも話を合わせられる。天文部の仕事を真面目に行っているが、直樹が真面目にやらないため中々思うようにいかないでいる。現在は学生寮に生活しており、親の転勤が多いためかゴールデンウィークでも実家に戻らない。親の転勤が多く友達ができない妹の柚香のことを気にしている。
深野 純一(ふかの じゅんいち)
声優:片岡大二郎/松本保典
蓮美台学園の数学担当教諭にして生活指導。決まり事に非常にうるさく、授業も厳しいことから、学生からは「フカセン」の愛称で恐れられているが、かなりの愛妻家でもある。妻の美由紀は蓮華寮の管理人を務めており、とても美しいと評判だが、直樹が蓮華寮に行くと必ず不在であり、会うことができない謎の人物でもある。
おまけでは、本編では見られない彼の日常を見られる。
宇佐美 玲(うさみ れい)
声優:小鳥田麗子/本間ゆかり/同左/?
誕生日:1月4日。血液型:不明。星座:やぎ座。身長:168cm。3サイズ:87(C)/58/87。
蓮美台学園理事長。普段は時計塔の理事長室にいるため、入学式や卒業式などの行事でしか見ることが無い。恭子や結と仲が良く、堅苦しい事ことが嫌いなため直樹に対しても名前で呼ぶように言ってくる。コーヒーよりも紅茶派。

2009年01月27日

アブロ・カナダ CF-100

CF-100はアブロ・カナダ社が製作したカナダ軍の全天候ジェット戦闘機。愛称は「カナック」(Canuck、「カナダ人」の意)だが親愛の情を込めて「クランク」(Clunk、「ドスン」「ガタン」等に相当する擬音)とも呼ばれる。1950年に初飛行し、冷戦時代の防空に従事した。本機は、カナダで設計され、量産された唯一の戦闘機である。

乗員はパイロットと航法士の2名が縦に並び、翼は直線翼、エンジンはターボジェット2基を胴体の左右に並べて翼の上に置き、片発停止時の安定を確保していた。水平尾翼は垂直尾翼の中ほどに位置している。

CF-100は水平飛行では音速を超えられなかったが、1952年12月18日に、アブロ社のチーフ開発テストパイロットであるヤーノシュ・ズラコウスキが、CF-100 Mk.4の試作機によって30,000フィート(約9,000m)の高度からのダイブで音の壁を突破している。

第二次世界大戦が終結して冷戦時代となると、カナダ北方の広大な空域はソ連の爆撃機の侵攻に対する前線となり、カナダは防空のために長距離をパトロールできる全天候要撃機を必要とした。それは、パイロットと航法士の複座で、強力な2基のエンジンと、機首には最新式のレーダーおよび火器管制装置を備え、全天候かつ夜間に行動可能な戦闘機となるはずであった。CF-100は、それに加えて短い離陸滑走距離と高い上昇率を持ち、要撃機としての役割をよく満たしていた。

カナダ空軍の全天候戦闘機に関する仕様に対応するための「XC-100」計画が1946年10月にアブロ・カナダ社で開始された。エドガー・アトキン主任設計技師のチームによる研究はその後、デ・ハビランド社にいたジョン・フロストとアブロ社のジム・チェンバリンに引き継がれた。

CF-100 Mk.1 の試作機(シリアル18101)は全体を光沢の有る黒で塗装され、胴体とエンジンの側面に白い水平の稲妻模様が描かれた姿で工場から現れた。CF-100試作機は、グロスター社のチーフ・パイロット、ビル・ウォータートンの操縦によって1950年1月19日に初飛行を行った。CF-100は新開発のオレンダ・エンジンを装備することになっていたが、試作には間に合わなかったため、Mk.1(シリアル18101と18102の2機)は2,950kgの推力を持つロールス・ロイス エイヴォン R.A.3 ターボジェットエンジン2基を装備していた。

先行生産型であるMk.2の試作機10機(シリアル18103?18112)はいずれもオレンダ2エンジン(推力2,720kg)を装備していた。そのうち1機は複操縦装置を装備した練習機型で、Mk.2Tと称した。最初の量産型Mk.3は、APG-33レーダーを装備して、8門の12.7mm機銃を胴体下にパック式に装着した。エンジンはオレンダ8(推力2,720kg)である。また複操縦装置付のMk 3CTとMk 3DTも作られ、訓練部隊に引き渡された。

生産
1950年9月に、カナダ空軍は量産型Mk.3を124機発注し、1953年から量産型の配備が始まった。しかしMk.3の生産は70機(シリアル18113?18182)で打ち切られ、以後はロケット弾の武装を追加したMk.4に移行した。MK.4の試作機はMk.2の10号機を改造したもので、1952年10月11日に初飛行した。機首にはより大きなAPG-40レーダーが収められたために長く、丸みを帯びたものとなり、自動捜索・射撃の行える火器管制装置が装備された。胴体下の武装パックは30mm機関砲4門のものとマイティマウス対空ロケット弾48発収容のものとが選択でき、また両翼端にはマイティマウス各29発収容可能なポッドが装着された。このポッドは大型の燃料増槽と交換することができた。オレンダ9エンジン(推力2,945kg)を装備したタイプをMk.4Aといい、エンジンをより強力なオレンダ11(推力3,400kg)に変更したタイプをMk.4Bと称する。Mk.4の発注は510機に達した。

CF-100の最後のタイプは1955年から配備が始まった高高度型のMk.5であり、これは翼端を1.8m延長し、水平尾翼を大型化して高空性能を増したもので、武装も機銃を廃止してロケット弾のみとなった。Mk.5はMk.4の発注分を途中から引き継ぐ形で生産され、全部で332機が作られた。

このほか、アブロ・カナダ CF-105 アロー戦闘機の配備までの「つなぎ」としてスパロー II ミサイルを装備しアフターバーナー付のオレンダ11Rエンジン(推力3,740kg)を装備したMk.6も提案されたが実現しなかった。また、主翼と水平尾翼に25度の後退角を付けたCF-103が、1951年にモックアップ作成まで進んだが生産は見送られた。

経歴
CF-100は、アメリカとカナダの北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)の下で、アメリカ北方空域をソ連の核装備の爆撃機の侵入から守るために活動した。さらに、北大西洋条約機構(NATO)の一員として、1956年から1962年に掛けて、4つのカナック部隊がカナディア・セイバー部隊と交代してヨーロッパに駐在した。彼らはしばしば、他の部隊が行動できないような視界ゼロの悪天候の中で活動した。カナックは自国では無塗装であったが、海外勤務部隊では、上面がダークシーグレーと緑、下面がライトシーグレーという、イギリス式の迷彩塗装が施された。

アブロ社のチーフ開発テストパイロットであるヤーノシュ・ズラコウスキは、CF-100によるアクロバット飛行を何度か試み、特に1955年のファーンボロ航空ショーにおいて見せた「木の葉落し(falling-leaf)」の技は圧倒的で、多くの航空関係者、工業関係者から「グレート・ズラ」と賞賛された。彼らは、大きな全天候戦闘機がかくも迫力の有る飛行を行うことが信じられなかった。後にベルギーがCF-100の導入に踏み切ったのも、おそらく彼のパフォーマンスの成果である。

CF-100は各タイプ合わせて692機が製作され、そのうち53機がベルギー空軍に引き渡された。当初の設計では耐用時間わずか2,000時間とされていたが、カナックの機体は飛行時間が20,000時間を超えても使用に耐えることが確認された。そのため、CF-101 ヴードゥーと交替して最前線から引退したあとも、オンタリオ州のノース・ベイに駐在するカナダ軍第414飛行中隊に1981年まで所属し、偵察、訓練、および電子戦の任務についていた。今でも相当数のCF-100がカナダ国内やその他の場所で展示されている。

CF-100の後継として計画されたCF-105アローは、カナダ製の洗練されたオレンダ・イロコイエンジンを装備していたが、カナダ政府の納得感に乏しい決定によって1959年にキャンセルされた。
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各型解説
CF-100 Mk.1:最初の試作型。2機。
CF-100 Mk.1P:写真偵察機型。提案のみ。
CF-100 Mk.2:先行生産型。10機。
CF-100 Mk.2T:CF-100 Mk 2の複座練習機型。10機のうち2機。
CF-100 Mk.3:複座の全天候長距離要撃戦闘機。カナダ空軍のための最初の量産型。70機。
CF-100 Mk.3A:CF-100 Mk 3のオレンダ2ターボジェットエンジン装備型。21機。
CF-100 Mk.3B:CF-100 Mk 3のオレンダ8ターボジェットエンジン装備型。45機。
CF-100 Mk.3CT:CF-100 Mk 3の1機を改造した複座練習機型。後にCF-100 Mk 3Dとなった。
CF-100 Mk.4:複座の全天候長距離要撃戦闘機。Mk.2の1機を改造。
CF-100 Mk.4A:CF-100 Mk.4をオレンダ9ターボジェットエンジン装備としたもの。137機。
CF-100 Mk.4B:CF-100 Mk.4をオレンダ11ターボジェットエンジン装備としたもの。141機。
CF-100 Mk.4X:CF-100 Mk.4の改装型。提案のみ。
CF-100 Mk.5:複座の全天候長距離要撃戦闘機。オレンダ11またはオレンダ14ターボジェットエンジン装備。332機。
CF-100 Mk.5D:CF-100 Mk5の少数機をECM(対電子戦)機およびEW(電子警戒)機としたもの。
CF-100 Mk.5M:少数のMk.5にAIM-7スパローII空対空ミサイル運用機能を持たせたもの。
CF-100 Mk 6:AIM-7スパローII空対空ミサイル装備型。提案のみ。

カナダ : カナダ空軍、カナダ統合軍
ベルギー : ベルギー空軍

性能諸元(CF-100 Mk.5)
乗員: 2名(パイロットおよび航法士)
全長: 16.5 m
全幅: 17.4 m
全高: 4.4 m
翼面積: 54.9 m?
空虚重量: 10,500 kg
全備重量: 15,170 kg
エンジン: アブロ・カナダ オレンダ 11ターボジェット(推力 3,400 kg) ×2
最高速度: 888 km/h
航続距離: 3,200km
上昇限度: 13,700 m
上昇率: 44.5 m/s
推力重量比: 0.44
武装: 70 mm マイティマウスロケット弾ポッド(29 発) × 2(両翼端)